HISTORY

NANGA 2020

NANGA HISTORY

FOR THE GREAT NEW STEPS

第1歩を踏み出す。
アウトドアが冒険家だけのものではなくなった

社会現象として認められるアウトドアブームという流行の波が、日本には何度か訪れている。
第一波は高度成長期にモータリゼーションとともにやってきた。
道路整備が整いはじめ、業務用だけでなく人々が自家用車を持つようになると、オートキャンプというアウトドアスタイルも一気に普及していった。

第二波はバブル期に発生した。
人は街だけでなく、アウトドアへも繰り出し、アウトドアアクティビティが冒険家だけのものではなくなった。
その頃、ナンガの前身となる有限会社コスモスが誕生した。

1985年、ニューヨークのプラザホテルでG5が開かれ、プラザ合意を締結。
発表の翌日から急激な円高ドル安が進行し、1ドル=240円台だった為替レートが1年後には1ドル=120円台まで円高となった。
日本経済は円高の影響を回避するために生産拠点を労働力の安いアジアに移し、貿易摩擦を回避するために現地生産を進めた。
「寝袋を作りはじめたのは、1988年のことです」と代表取締役である横田智之が当時を振り返る。

「寝袋を作りはじめる前は、祖父の代から続く工場で布団の加工を請け負っていました」

かつて米原市は、全国シェア約30%を誇る真綿布団の生産地。
しかし大手布団メーカーも時代の流れに逆らわず、海外へと生産拠点を移し、国内の下請け仕事はなくなっていった。

「小さい工場だったのですが、それでも従業員はいる。地域の雇用をなんとか守らなくてはと苦しんでいる父がいる。私は当時、まだ子供だったのですが、工場が大変そうなことは肌で感じていました」

家族、社員、工場、地域の雇用を守るため、ブームになりはじめていたアウトドアの大切なギアのひとつである寝袋の縫製加工を国内大手アウトドアブランドから請け負った。
ナンガ誕生のきっかけとなる第1歩を踏み出した。

まだ気づかぬ原石を磨く。
ユーザーから修理依頼が届くようになる

1988年からはじめた寝袋縫製だが、90年には国内大手アウトドアブランドの寝袋加工をほぼ独占的に請け負う工場となっていた。
しかし、製造業が国内から海外へと流出する波は、第2次アウトドアブームでも止めることはできなかった。
バブル崩壊後、大手アウトドアブランドは国内生産拠点を大陸へ移管したため、売上が激減した。

「経営は悪化を辿りました。当時、二代目社長と営業を担当していた共同経営者と意見が度々対立したことは言うまでもありません。その結果、袂を別つことになり、父は株式会社ヨコタコスモスを設立したんです。しかし営業の術もなく、取引先もない状況です。だからといって、悪いことばかりではなかった。アウトドアブランドは国内に生産拠点がなくなっているわけですから、国内で縫製修理もできない。だからこそユーザーから直接、修理依頼が届くようになったんです。」

バブルが去ったアウトドアブームゆえに新品ばかりが売れていくのではない。
新たに買うのではなく、修理をして使おうとするユーザーが増えていく。
工場は来る日も来る日も寝袋修理に追われる日々が続いた。
この出来事は、後のナンガ製品永久保証サービスへとつながっていく原石だった。

品質向上のために。
河田フェザー株式会社から学んだ熱意

父であり、先代社長は、ブランドの海外生産移転や共同経営者との対立により苦境に立たされた経験から〈捨てられたことへの反骨心〉を持ち続けて前進した。
また従業員を守るために、〈この地でずっと仕事をする〉と決め、国内生産にこだわるようになった。

「一方で、修理依頼の増加にともなって、独自メーカーとして寝袋を製造することを考えはじめたのです」

独自メーカーとして立ち上がるにあたり、最初に目を付けたのは中身の羽毛だった。
1990年時代は羽毛の検査基準がまだ整備されておらず、羽毛の品質が適正かを判断することが難しかった。
また寝袋用の羽毛業者との繋がりも弱かったため、新たに国内の羽毛業者を探すことを決意。
そこで出会ったのが、河田フェザー株式会社だった。
訪問した河田フェザー社では当時から通常の検査基準に加え、独自の羽毛試験項目を設け、品質管理を徹底していた。
この熱意は、ナンガが独自メーカーとして品質向上のために必要不可欠な要素であった。
河田フェザー社訪問から羽毛への見識も深め、取引がはじまった。

ナンガ誕生。
ともに乗り越えていく険しい道のり。

製造業の海外流出といった時代の波に翻弄され、国内生産を続けることをアイデンティティ、独自ブランド立ち上げを決意した。
社名も改め、株式会社ナンガに変更。
国内生産を維持継続するにあたり、製品は中・高価格帯に絞り込まれた。
取引先もなくイチからのスタートとなり、いくつもの山を越えていかねばならぬ困難な道のり。
ブランド名ともなる社名は、ヒマラヤ山脈にそびえたち屈指の難易度を持つ、人食い山と恐れられる世界9位の高峰ナンガ・パルバットにちなんで名付けられた。
そこには、どんな困難も従業員とともに乗り越えていくという決意が込められている。

「私が入社したのは2001年のことです。父は自分の進路を自由にしていいと話していましたが、長男だったので家業を継ぐ意志は早い時期から持っていました。だから継ぐためにも当時のナンガに欠けていた営業ノウハウを持って入社することは重要だったのです。そこでまったく別の業態で営業を学び、2年間トップという営業成績を携えてのナンガ入社でした」
そして後の社長となる横田智之の最初に課せられた任務は、他ならぬ登山であった。
「入社したその日に、社長である父に〈山に行ってこい〉命ぜられたのです。それから2ヶ月間の山ごもりを経て、営業職を任されたのです」

一方で、現専務である横田敬三は「父のもとでは働かない」、つまり家業を継がないということを明確に告げていた。
敬三は大学を卒業するとカヌーのインストラクターなどを経験。
やがて父である二代目社長が実質的に現場を離れるようになると「兄貴が教えてくれるなら、一緒にやっていきたい」とナンガに入社。

まずはやってみる。
国内市場を経て海外進出へ

創業以来、脈々と受け継げられてきたチャレンジ精神が企業理念にある。
2002年にナンガ初となるダウンジャケットの試作をはじめる。
昼夜なくアパレル縫製を研究し、試行錯誤を繰り返した末、翌年に初代オーロラダウンジャケットが完成。
さらに2003年には米国アウトドアブランドのダウンジャケット、ダウンベストOEM製造の大型依頼を受注。
「まだアパレル製造をはじめたばかりで、経験をしたことのない受注数だったのです。結果としては納期遅れとなり、損失を被ることになりました」
弟・敬三が入社したことにより寝袋事業をすべて委ね、兄・智之はアパレル事業を専念することになる。
2009年には売上が3億円を達成し、智之は三代目社長に、敬三は専務に就任する。

「祖父が創業し、工場を設立。父がアウトドアブランドとして確立し、全国規模の知名度となった。私は三代目社長に就任した際、売上が10億円を超えた段階で海外展開を行うと決意したんです」

三代目社長が掲げた中期目標の10億円を超えたのは2017年のこと。
その7月に、ユタ州で開催される世界最大級のアウトドアスポーツ国際見本市「アウトドアリテーラーショー(通称:OR)」へ出展。
展示会初出展となったORを皮切りに、海外での営業を開始する。
極寒地アラスカでも対応できるよう、ナンガ史上もっとも暖かい寒冷地対応の「マウンテンビレーコート」を開発。
またトラベル用としても持ち運びしやすいポケッタブル仕様のエアリアルダウンパーカーをアメリカで先行販売を開始。
険しい道のりへの、新たなるチャレンジがはじまった。

環境保護。
企業の担うべき責任

創業以来一貫してブランド価値を高めるため国内製造にこだわってきたが、ついに海外生産に踏み切った。

「大きな理由のひとつに、総合アウトドアメーカーの構想があったからです。多くのメーカーが生産拠点を海外に移し、日本では縫製工場が少なくなる中、国内でこれ以上の縫製担当者を確保することが難しくなっている現状があります。セレクトショップからの発注に応えるためにも、低価格の既存品は海外生産にシフトし、高価格帯の製品については日本生産に切り替えたのです」

製造を国内外で並行する決断とともに、ナンガ仕様の上質な素材を確保した。

「スペイン産羽毛を河田フェザー社と共同で独占して得られる体制を整えたのです。羽毛業界での歴史はフランスやポーランドと比べ、スペインは浅いのですが、最新の設備を導入している点に着目したのです。現地へ視察に行きましたが、水鳥を広大な土地、衛生的な環境でのびのびと飼育していたのです。水鳥の身は食肉へとなり、捨てる部分がなく100%利用されています。そのためスペインでは水鳥の肉質を向上させるべく、長い日数をかけて育成しているのです。それは羽毛にもメリットがあります。肉質が向上すると丈夫で反発性が強く、かさの高い原毛を得られるのです」

また2017年からはじめた海外展開をより本格化させるためにも、自社物流拠点「ナンガ長岡ロジスティックセンター(通称NNLC)」を2019年に設立。
進化することを止めない。
そして、変わらないのは寝袋の永久保証サービス。
修理して永遠と使う。
創業以来、磨き続けた技術で究極のサスティナブルな活動に取り組んでいる。